
幼馴染は、僕に内緒で知らない指を覚えていく ―― 第 1 話「奥まで、ほぐしますね」
この作品はフィクションです。登場人物はすべて成人( 20 歳以上)であり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。 R18 。
美咲とは、子どもの頃からの幼馴染だ。
家が近所で、小学校も中学校も一緒。彼女が転んで泣いた日のことも、初めて自転車に乗れた日のことも、僕は隣で見ていた。美咲の笑い方も、怒ったときに鼻の頭に皺を寄せる癖も、全部知っているつもりでいた。
その美咲と恋人同士になったのは、同じ大学に進学してからだ。まだ二ヶ月しか経っていない。
幼馴染から恋人へ。距離が変わると、こんなにも見え方が変わるのかと驚いた。手を繋ぐだけで心臓がうるさくて、彼女の一挙一動に振り回されて。二十年近く一緒にいたはずなのに、恋人としての美咲のことは、まだ半分も知らない。それが逆に、たまらなく愛おしかった。
僕も美咲も、それぞれ一人暮らしだ。彼女のアパートは大学の反対側で、奨学金と家賃で、生活はいつもぎりぎりだった。だから週に何度か、バイトのない夜に、彼女は僕の部屋に泊まりに来た。
だから――彼女が僕に内緒で、あのバイトを始めていたことに、僕はしばらく気づかなかった。
きっかけは、同じサークルの女友達、香菜だったらしい。あとから知った話だ。
「時給、めちゃくちゃいいよ。マッサージするだけだし」
香菜にそう誘われて、美咲はメンズエステの面接を受けた。僕に言えば心配される。反対されるかもしれない。だから――言わなかった。
メンズエステ。その言葉を、美咲は一度も、僕の前で口にしなかった。「夜のバイト、始めたんだ」と、それだけ。何のバイトなのかは、うまくぼかして、決して言わなかった。男の客の体を触る仕事だという事実を、彼女は器用に、僕から隠していた。そしてこの先も、彼女は最後まで、自分からそれを口にすることは、なかった。
隠されている、と気づいたのは、金曜の夜のことだった。
バイト帰りの美咲が、そのまま僕の部屋に来た日。彼女から、嗅いだことのないアロマの匂いがした。ラベンダーとも違う、もっと甘くて、重い、肌に絡みつくような匂い。
「その匂い、どうしたの?」
僕が訊くと、美咲は一瞬、言葉に詰まった。
「……あー、えっと。お店で、アロマ焚いてるから」
嘘ではない。けれど、全部でもない。二十年の付き合いだ。彼女が本当のことを半分だけ隠すときの、あの微妙な間くらい、恋人になる前から知っている。
その夜、狭いベッドで彼女が僕に体を寄せてきたとき、指先がやけに柔らかくて、しっとりしていた。そして、その手が僕の手を握ったとき――ほんの一瞬、彼女の指が、僕の指の間をなぞるように動いた。
子どもの頃から知っている美咲が。手を繋ぐだけでも初々しかった、恋人になったばかりの美咲が。いつの間に、こんな触り方を覚えたんだろう。まるで、誰かにそうされて、体が覚えてしまったみたいに。
翌週、美咲が僕の部屋で眠っている夜だった。テーブルの上で、充電中の彼女のスマホが震えた。画面が光る。
見るつもりなんてなかった。でも、通知のプレビューが、目に飛び込んできてしまった。
「今日の田中様、また美咲ちゃん指名だって。もう常連だね笑 香菜」
田中さん。指名。常連。
香菜からのメッセージ。「マッサージするだけ」のはずのバイトで、田中さんとかいう同じ男が、何度も彼女を「指名」している。
美咲のバイト先は、新宿御苑のはずれにある、古いマンションの一室だった。看板もない、表からは中の見えない、いわゆるマンション型のメンズエステ。それでも、予約サイトを開けば、誰でも、客として行くことができる。
美咲の源氏名を避けて、別のセラピストを選んで、偽名で予約を入れる。指が、勝手にそこまで進んでいた。
彼女が、どんな空気の中で、どんな顔で働いているのか。同じ空間に立って、確かめずにはいられなかった。
恋人に内緒で、その店に客として足を踏み入れた僕を待っていたのは、美咲ではない、年上のセラピストだった。「奥まで、ほぐしますね」――その指が、僕を、後戻りできない場所へ連れていく。
▼ ここから本編( R18) ▼
思えば、その夜のことが、すべての始まりだった。
香菜の通知を見る、少し前。美咲が僕の部屋に泊まりに来た、いつもの夜のことだ。
狭いベッドの上で、僕は珍しく、自分から彼女に手を伸ばした。付き合って二ヶ月、幼馴染だった時間が長すぎて、僕はいつも、彼女に触れるのが怖かった。手を繋ぐだけで満足しているふりをして、その先へ、なかなか踏み込めずにいた。
だからその夜も、僕の手つきは、情けないほどぎこちなかった。
「ふふ、緊張してる?」
美咲が小さく笑った。そして、僕の手を取って、自分の頬に導いた。その指の動きが――ほんの一瞬、僕の知らないものだった。
指先が、僕の手の甲を、焦らすようになぞる。関節のひとつひとつを確かめるみたいに、ゆっくりと。子どもの頃、通学路で繋いだ、あの不器用な手とは、まるで違った。誰かに教え込まれ、何度も繰り返して、体に染み込んだような、なめらかな動き。
「……美咲、そういうの、どこで覚えたの」
訊いてしまってから、後悔した。美咲の指が、一瞬だけ止まった。
「どこって……なんとなく、だよ」
彼女はそう言って、僕の胸に顔を埋めた。甘い、あの店の匂いがした。それ以上、僕は何も訊けなかった。その夜、僕は彼女を抱きながら、ずっと、別の男の影を探しているような、嫌な感覚を拭えずにいた。
そして数日後、僕は香菜の通知を見て、眠る彼女のスマホを、盗み見た。
――田中様。指名。オプション。時間延長。
意味を測りかねる単語が、暗がりの中で、僕の想像を勝手に膨らませていく。僕が手を繋ぐだけで満足していたあいだに、彼女は、顔も知らない男の体に指を這わせ、その男から「指名」され、「気に入られて」いた。
問い詰めることは、できなかった。盗み見た僕には、その資格がなかった。
だったら、客として行けばいい。そう思いついたとき、自分でも自分がどうかしていると分かっていた。それでも、指は勝手に予約サイトを開いていた。美咲の源氏名は避けて、別のセラピストを選んで、偽名で予約を入れた。
彼女がどんな空気の中で、どんな顔で働いているのか。同じ空間に立って、確かめずにはいられなかった。
美咲のバイト先は、新宿御苑のはずれにある、古いマンションの一室だった。看板もない、表からは中の見えない、いわゆるマンション型のメンズエステ。部屋はワンルームで、一部屋にセラピストが一人。だから、店の前で張り込んでも、他の部屋を覗いても、田中さんの顔も、美咲の仕事ぶりも、見られるはずがなかった。潜り込む以外に、確かめる方法はなかった。
約束の時間まで、まだ少し余裕があった。僕は新宿三丁目の駅で降りて、御苑のほうへ、ゆっくりと歩いた。表通りの華やかさから一本裏に入ると、雑居ビルと古びたマンションの並ぶ、生活と欲望の混ざり合った一角が、いくつも静かに口を開けている。あとで知ったことだけれど、この街には、ああいう店が、驚くほど多いのだった。
御苑近くのファミリーマートに寄って、僕は ATM で現金をおろした。カードは使えない、と予約の返信に書いてあった。財布に折り込んだ一万円札の感触が、やけに現実味を帯びていて、指が少しだけ震えた。このまま帰りたい自分と、確かめずにはいられない自分が、財布の中で綱引きをしていた。
すぐ近くのドトールに入って、ホットコーヒーを頼んだ。心を落ち着けたかった。けれど、夜のこの店は、落ち着ける場所ではなかった。大きなスーツケースを引いた外国人観光客が、地図を広げて陽気に笑っている。その斜め向かいでは、目的の読めない、どこか変わった風体の男が一人、ぬるくなったコーヒーを前に、じっと時間を潰していた。僕も、あと数十分でその一人になるのだと気づいて、コーヒーの苦さが、余計に喉に絡んだ。
指定されたのは、そこから歩いて数分の、外壁の煤けた古いマンションだった。築年数の見当もつかない、それなのに、エレベーターの階数表示だけが妙に新しい建物。それが、この街の作法なのだと、あとで分かる。外はわざと古びたまま、中だけを、別世界に作り替える。
エレベーターで、十階まで上がった。心臓が、痛いくらいに鳴っていた。すれ違うのが美咲だったらどうしよう。そう思うのに、足は止まらなかった。
指定された部屋のインターホンを押す。ドアが開いた瞬間、僕は少しだけ、拍子抜けした。外廊下の古びた薄暗さとは裏腹に、部屋の中は、真新しくリフォームされていた。白い壁、やわらかい間接照明、洗い立てのタオルの匂い。清潔で、生活感がなくて、だからこそ、ここが何をする場所なのかが、かえって生々しく浮かび上がっていた。
出迎えてくれたのは、美咲じゃない、知らない女性だった。予約した通りの、別のセラピスト。歳は、僕より少し上――二十代の後半だろうか。落ち着いた物腰と、きちんと化粧をした顔立ちは、昼間はオフィスで働いていそうな、そんな雰囲気の女性だった。
「初めてのご利用ですか?」
柔らかい声でそう訊かれて、僕は曖昧に頷いた。彼女は「リカ」と名乗った。源氏名だろう。ほっとしたような、拍子抜けしたような気持ちで、僕は言われるまま服を脱ぎ、床に敷かれたマットの上に、うつ伏せになった。
部屋には、あの匂いが満ちていた。美咲が纏っていた、甘くて重いアロマの匂い。彼女が毎日、この匂いの中で、客の体に触れているのだと思うと、それだけで胸の奥がざらついた。
背中にオイルが落とされ、リカさんの指が、肩甲骨のあたりをゆっくりと滑り始める。慣れた、無駄のない手つきだった。美咲も、この店で、こんなふうに客に触れているのか。田中さんとかいう男の背中に、この匂いの中で、あの指を這わせているのか。
「お背中、すごく張ってますね。お仕事、忙しいんですか?」
世間話をしながら、彼女の手は、肩から腰へ、腰から太ももへと、少しずつ下りていく。オイルをまとった指が肌を滑るたびに、力が抜けていくのと裏腹に、別の感覚が、体の芯に灯り始めるのが分かった。
「学生さん、かな。若いですね」
「……はい」
余計なことは言えなかった。僕がここにいる本当の理由も、この店の別の部屋に、恋人がいるかもしれないという事実も。ただ、リカさんの指が動くたびに、頭の隅で美咲のことを考えている自分がいた。今、この瞬間も、彼女はどこかの部屋で、誰かにこうしているんだろうか。
「そろそろ、仰向けになってもらえますか」
言われて、僕は体を返した。タオル一枚。その下は、もう、隠しようもなかった。
リカさんは、それを見ても顔色ひとつ変えなかった。むしろ、ほんの少しだけ、目を細めて笑った。年上の女の、余裕のある笑み。
「元気ですね」
彼女の指が、太ももの内側を、鼠径部のほうへとなぞっていく。決して急がない。焦らすように、じらすように、僕の反応をひとつひとつ確かめながら、少しずつ、際どいところへ近づいてくる。
ここまでされると、男は――こうなる。頭のどこかで、美咲が客にしているのも、まさに今、僕がされているこれなんだ、と気づいた瞬間、体が、痛いくらいに昂った。
僕は今、恋人を寝取られようとしている側の人間だ。それなのに、その恋人が働く店で、別の女の指に、恋人がしているのと同じことを、されようとしている。
その倒錯に、飲み込まれそうになる。
「ここ、すごく硬くなってますね」
リカさんが、囁くように言った。その声は、施術のマニュアルの延長のようでいて、明らかに、その一線を越えようとする響きを含んでいた。彼女の指が、タオルのふちを、意味ありげになぞる。
「彼女さん、いるでしょう」
不意打ちのような一言に、僕は答えられなかった。図星だったからじゃない。ここに、その彼女がいるかもしれないからだった。
「言わなくていいですよ」
リカさんは、僕の沈黙を面白がるように、小さく笑った。
「そういうお客さん、多いから。彼女がいても……ううん、彼女がいるからこそ、来る人もいる」
その言葉の意味を、僕はまだ、正確には掴めていなかった。ただ、彼女の指が、タオルの下の熱を、布越しに、ゆっくりと包み込んだとき、思考は白く飛んだ。
「……ここから先は」
リカさんが、僕の耳元に唇を寄せて、囁いた。オイルで濡れた指を、タオルのふちにかけながら。
「特別なサービス、してあげよっか」
その声に、頷いてはいけないと、理性が最後の抵抗をした。僕は美咲の恋人だ。ここに来たのは、彼女を確かめるためで、こんなことをするためじゃない。
でも――その美咲は今、この同じ屋根の下で、田中さんとかいう男に、これと同じことをしているのかもしれない。
その想像が、僕の理性を、あっさりと溶かした。
僕は、リカさんの手を、振り払わなかった。
まだ、誰も知らない。この夜、僕がその手をどうしても振り払えなかったことも――美咲を想いながら、別の女の手の中で、何を考えていたのかも。
(第 2 話「田中さんの正体」へ続く)
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第 4 話「私が教えたこと」から先は、 Ci-en / Fantia で公開しています。
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